わたしは、私のことを忘れてしまいます。

あなたが、あなたであることも忘れてしまいます。

梔子の花の白さも、この静かな香りも忘れてしまいます。

一緒の夕景の刻の食事のしあわせを忘れてしまいます。

春を忘れてしまいます。

秋の日溜りを忘れてしまいます。

 

わたしは私であることを忘れてしまいます。

あなたがあなたであることを忘れてしまいます。

あなたのやさしさを忘れてしまいます。

あなたの手の温もりを忘れてしまいます。

好きであったあなたの笑顔も忘れてしまいます。

心の襞の中の記憶を忘れてしまいます。

 

わたしは私であることを忘れてしまいます。

あなたがあなたであることを忘れてしまいます。

一切を「さよなら」で彼方に忘れてしまいます。

 

私は見知らぬ街角にいます。

私は見知らぬ野山をさまよっています。

風が吹いていることも忘れてしまいました。

雨が降っていることも忘れました。

鼻水がたれていることも忘れました。

ただ、私は全てを忘れて呆然と立ちすくんでいます。

 

お願いです。

見知らぬあなたが、見知らぬ私にどうぞ声をかけて下さい。

ただ、見知らぬあなたのやさしさだけを下さい。お願いします。

親切などいりません。

 

ただ、やさしさだけを下さい。

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女性の下着の名称は様々であり常に変化している。着物が生活の中心であった時代、女性は腰巻、男性は褌であった。明治も大正も昭和の20年代は私の田舎ではスカートに腰巻という女性も沢山あった。フーテンの寅さんのテキヤのセリフで「チョロチョロ流れるお茶の水、粋な姉ちゃん立小便」の時代が存在していた。

要するにパンツなんてものは、日常に不要の物であった訳である。もっとも、このようなことは日本だけのことではなく、フランスでは貴族の女性はパンツははかなかった。パンツはもっぱら娼婦の中で使用されており、いわゆる貴婦人にとっては軽蔑すべきものであったのである。考えようによってではあるが、こういう時代は女性が最も開放的な時代であったように思う。近代になるにしたがって、女性はいろいろな意味で無用な物を身にまとい周囲から隔離されるものとなっていったようにも思います。

ところで、超高齢化の時代に入って、介護というものがクローズアップされ、日本は今や国家予算を使い介護というものに躍起になっている。介護の現場でその仕事に携わる人も、男性が占める割合と重要度は高くなってきている。したがって、男性が日常生活支援の中で、女性のパンツを洗う場面が当たり前のことになっている。つくづく考えると、パンツなど本当は不要ではないかと思いついた。人間は生まれて育ってゆく過程と高齢になって死んでゆくときに「オムツ」が必要なだけであって「脱ぐ」だけか、「脱がせる」だけのパンツは無用の長物なだけである。文化とは不便なものである。

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去る、4月27日(日)にオープンしてちょうど1年となるぎふ村特定施設(サービス付き高齢者向け住宅)で落語高座が開催されました。

メインバーは中部地方で活躍している社会人落語のメンバーの方たちです。ほぼ、毎年ぎふ村グループ施設のどこかへ高座に来てくれ

てます。

 

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今回、台数限定でソフトウェア代金・設定費総額約10万円と毎月の本体分割代金+通信費の6000円(通常はご利用者にご負担いただく費用です)を、ご利用希望者様に無料で貸し出すことに致しました。利用者様のご負担は毎月の維持費1000円のみとなります。台数は、5台限りです。受け付けは先着順に審査させて頂きます。お一人で暮らしてみえるお祖父さん、お祖母さんの安否が心配なご家族様や、少しでも、このシステムに興味がある方は、今すぐ、ご連絡下さい。

連絡先  0573-28-6066  担当 鈴村

 

 

 

 

 

 

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